当時、戦後復興の真っ最中で、食料の安定供給が課題でした。じゃがいも・小麦・海産物などが東京へ流れていました。当時、大阪でお茶屋を創業された方も裸一貫で産地に赴き、茶葉を譲ってもらったと聞いたことがあります。結局、北海道から何を持ち帰ったかは不明ですが、 「足で稼ぐ商売」「差別化への執念」が会社の土台になっていることが分かりました。並行して大森地区は昭和初期まで海苔漁業が盛んでした。父の話だと、海苔や日本茶を扱ってほしいと、酒屋さんを中心に回ったそう。昭和30年前後の酒屋は、地域の暮らしを支える「御用聞き」でした。家々を回って注文を取り、配達。「酒屋を通して商品を広める」のは、新しい取り組みだったのかもしれません。醤油や酢、海苔、茶葉など「常備品」を一緒に販売。奇跡的に今でも付き合いのある店が2件ほど残っています。
その後スーパーの卸売りに参入したらしく、資材などの過剰在庫等、資金繰りに困ったのでしょう。残念ながら、祖父の商売は失敗に終わり、定年まで取引のあった海苔問屋でお世話になりました。
父20才。高度成長の追い風もあり、第二幕「小売業」で業績回復。父は馴染みの酒屋さんから誘いを受け、平和島から大森町に移転。小売店が集う「城南市場」2坪のお店を構えました。そこは体格のいい父が縮こまり、お客さん2人が入れば満員。店内にはお茶・海苔・しいたけ・昆布など、所狭しに飾られていた記憶が思い出されます。
市場には、魚屋さん・八百屋さん・肉屋さん・薬屋さん・おでん屋さん・洋菓子屋さん・酒屋さん・薬屋さんが一体となり活気に溢れていました。今で言うショッピングモールではなく、人のつながりそのものでした。店の前を通るごとに、店主さんが声をかけ元気をくれました。物が少なかった時代は、物々交換じゃないけど、みんなで助け合い生活と商売が同居していました。モノを買うのにお金が対価になるのは当然ですが、商人はそれだけじゃないんです。人が困っていて、うちの商品で役に立つことがあれば。そんな経験をもらえたのは、この市場で働いていた皆さんのおかげだと感謝しています。
父48才。入院した病院でたまたま葬儀社の方と知り合い、少量ですが、香典返しを受注できるようになりました。法人取引は未経験なので、父も必死でした。当初香典返しの主流はお酒や砂糖で、薄利、マイナス覚悟で取引を続けました。お茶や海苔はすぐに受け入れられるものではなかった。ただ少量の発注にも真摯に応え、葬儀社からの信用を積み重ね、ようやくお茶や海苔を扱ってもらえるようになった。数年後のことです。
うちの香典返しのピークは昭和50年後半~平成中盤の約20年。おそらく、生活が安定し「儀礼をきちんとすること」が社会的信用だったんだと思います。香典返しもしかり、きちんと用意することが重要視されました。家族・親族だけでなく、会社・町内会・取引先まで「弔事に参加=人付き合いの証」という感覚が強かったのではないでしょうか。参列者の多い葬儀ですと1000人規模もあり、冷や汗もので納品した記憶があります。
また急須が家族に1個あった時代ですから、お茶葉は重宝され、消費財としては良かったのではないでしょうか。「夜中に荷造りして納める」ような、365日対応する環境だったので、子供時代何処も旅行にいってないのは納得できます(笑)
衰退期は在庫を大量に抱えるリスクがあり、在庫調整に追われました。展示型販売・カタログギフト・スイーツへの移行・イオン・千疋屋さんなどの参入もあって、競争が激化。家賃・倉庫・車両など、経費もかさみ、わたしが縮小を決断しました。
大学時代はバイトに明け暮れていました。
携帯電話・PHSの全盛期。街中にアンテナが建てられ、通信インフラの整備が急ピッチで進められた時代です。私は車の運転が得意だったことから、街を走りながら電波の反応を測定する「基地局調査」の仕事を、大学4年間通して続けました。
また、同じ頃に登場した Windows95 が社会に大きな変化をもたらしました。パソコンが一気に普及し、ワードやエクセルといったソフトを使えることが「新しいスキル」として評価されたのです。通信調査でも資料作成やデータ処理を任される機会が増え、自分の力を活かせた印象です。
ただ一方で、卒業を控えた頃は「就職氷河期」と呼ばれる厳しい時代。就職が狭き門となるなか、わたしは結局、情報通信業(基地局調査)の会社に就職しました。
当時は、ITの熱気と崩壊が入り混じる時代でした。会社員として働いていた私は、仕事内容は大きく変わらず、アドビソフトを覚えたり、HTMLで情報を反映させたりと、勉強しながら、実務に活かせる環境がありました。地方出張も多く、自然に触れる機会があったのは心のバランスを取るうえでありがたかったです。
一方アメリカでは、ITバブルがはじけ、IT企業の破綻が連日ニュースをにぎわせていました。日本でも光通信やソフトバンクといった新興企業の時価総額が激減し、「ネット企業バブル崩壊」という言葉が飛び交っていました。ただ、日本の場合は携帯電話の契約数が右肩上がりで、インフラとしての通信需要は衰えず、現場の仕事が大きく揺らぐことはありませんでした。
そんな時代の中で、私自身は淡々と働きつつも、職場の空気が少しずつ変わっていくのを感じていました。特に仲の良い先輩が辞めてしまったことは大きく、居場所を失ったような気持ちになったのです。結果的に私も深く考えずに会社を辞めました。当時は「ネットで何かを始めたい」という漠然とした衝動があり、背中を押されたのかもしれません。振り返れば、バブルが弾けたからこそ「次の流れを自分でつかむしかない」という時代の空気が、自然と決断につながったように思います。
退社してからは、スキルを活かしたバイトをしながら、HTMLによるサイト構築に明け暮れていました。ちょうどIBMのホームページビルダーが販売され、HTMLを手打ちしていた身としては、ものすごい変化で衝撃を受けたのを覚えいています。最初の注文は「杉茶」という非常にニッチなお茶でした。喜びというより「本当に注文が来るのか」という驚きを今でも覚えています。アナログですが、メールで注文をとっていました。
すぐにヤフーさんがADSLを無料配布し、回線速度が安定。ショッピングカートやクレジット決済が普及し始め、ようやくネット通販の仕組みが整いはじめた頃です。今では信じられませんが、ネット黎明期の楽天市場は月額5万円。百貨店や量販店はほとんど参入しておらず、ネット販売は「個人事業主が新しい可能性に賭ける場」でした。私は独自ドメインでサイトを構築し、広告費をかけずに商品ページを量産しました。SEOという言葉が浸透していない時代に、検索結果で上位に出ることがそのまま集客につながったのです。夢中で昼夜を忘れて取り組みました。
その後、ホリエモン氏や三木谷氏が登場し。メディア融合も加速し、アメリカから5年遅れで本格的なネットビジネス成長期が到来します。ヤフオクも活用しながら「世界のお茶専門店」として約10年商いを続けました。しかし、当時の私は経験不足の若手経営者。ビジネスの基盤を固めないまま、時代の潮流にのっていただけ。小手先で通用するはずがない。健康茶メインだったこともあり、リピート率がも低く、ネットの売上は90%落ち込むまでになりました。このままやってもジリ貧だし、通販を続けつつ、新しい挑戦を試みました。それがプログラミング(Java)の習得です。
Javaを選んだのは偶然ではありません。当時(2000年代初頭)は、静的ページから動的なサイトへの転換期であり、PerlやCGIからより堅牢なサーバーサイド技術(JavaサーブレットやJSP)が注目されていました。eコマースは「見せる」だけでなく「運用する」段階に入り、在庫管理、受注処理、定期注文やメール配信などのバッチ処理、外部決済サービスとの連携が必須になっていたのです。Javaは型安全性とスケーラビリティの高さから企業システムで好まれており、私は「裏側を自分で作れるようになれば依存先を分散でき、商売の自動化が可能になる」と考えました。
私はJavaでデータベース接続や業務ロジックの自動化に取り組みましたが、そこでまた落とし穴がありました。技術を覚えることはできても、事業としての持続性を担保する組織力や顧客維持戦略を同時に育てなければ、技術の積み上げは成果につながらないのです。
振り返ると、この10年は「技術的な自立」と「経営的な甘さ」が同居した時期だったと思います。技術は確かに武器になります。しかし、武器を持っているだけで戦いに勝てるわけではありません。時代に応じて仕組みを変え、顧客との関係を再設計することを怠った瞬間に、潮目は変わってしまうのです。
わたしは当時、プログラミングはど素人でHTML・CSSをかじった程度。何を思ったか、通販システムを自社運用することで、事業に貢献できると思い込んでいました。調査もせず、リナックスのプログラミング教室に半年通いました。SCJPという、かつてSun Microsystemsが提供していたJava言語の認定資格を取得。Javaプログラミングの基礎知識・文法・API使用法などを問うものでした。(現在はOracleが継承)。何とかこの資格で、未経験ながら現場に派遣されました。はじめは決められた範囲のコーディングや、指示されたテストの実行を深夜まで行っていました。一番つらかったのは、後輩アシスタントして機能しなかったこと、徐々にコミュニケーションが途絶え、孤立し、つらかった。また過酷な労働がストレスとプレッシャーを生み、メンタル不調で退職しました。ただLAMP環境やシステムをどう支えるかという視点を知るきっかけにはなったと思います。
プログラミングの仕事はうまくいきませんでしたが、振り返り、今できることを必死に考えました。幸か不幸かグーグルによる検索エンジン集客は全盛で、改めてネット集客できる市場はないか調査しました。1年通しての売上を考えると、お年賀、バレンタイン、ホワイトデー、桜、母の日、父の日、お中元、帰省土産、敬老の日、いい夫婦の日、お歳暮など、ギフト市場ならお茶を投入できると推測しました。目的と年齢と性別を掛け合わせ、ティーギフトを約300個考案しました。あとは商品に合わせページを作り、キーワード対策を施しました。準備に約1年かかりましたが、2011年の東日本大震災が起こるまで、需要を取り込むことができました。要因は、今まで茶葉を購入したことのない25~40代の層に年配の方への贈り物としてアプローチできたことです。震災後は、他の食品同様、風評被害を受け、売上はガタ落ち。前提となるモノの個人ギフト市場鈍化も想像以上でした。
ギフトサイト開設と並行して、制作業務を実験的に開始していました。はじめは近隣の方とワードやエクセルの機能を教授し合ったり、サイトづくりを手伝ったり、商店街のサポート役でした。そこから同級生の紹介で、不動産屋さんのスタートアップを任され、そこで失敗したわけですが、それをきっかけに「サイトデザインの仕事」と本気で向き合うようになりました。現在、相談件数、約100件。制作事例は20業種、約50サイトです。小規模のコーポレートサイトを中心にご依頼いただいております。会社やサービスの根源を共に考え、視覚化するお手伝いです。なぜあなたなのか?を問います。またスマホ・SNS・AI活用など、メディアやツールに合わせ、ご提案しております。
茶葉販売は、パンデミックを機に葬儀事業はほぼ消滅。ご承知の通り、来店が激減し、配達業務を強化。わたしと父親で近隣を回るようになりました。今考えると、毎日自転車を乗っていた(べダルをこぐ)ので、足腰が相当鍛えられました。この頃から椅子に座ることをやめました。というのもパンデミック期間、サイト制作の依頼が急増しました。事務所にこもり、誰とも話さない日が数年続き、精神的に病みました。パニック障害など自律神経失調症と診断され、健康・交感神経について勉強することになります。結果2年かけて、自分を取り戻すことができました。怪我の功名といいますか、良い転機になったと思います。
パンデミックや店舗老朽化もあり、大森から西馬込に移転しました。お店は2坪になりましたが、現在、店舗兼、事務所で運営しています。サイト制作事業を早めに立ち上げたことで、会社が継続できています。西馬込は文士が集った、文化度合いの強い地。近隣の文化財・自然から学ぶことも多く、すごく気に入っています。小さくても新しいことを習慣化する日々。今後どうなるか分かりませんが、陽の目を見る日を夢見て~see you!
サイトづくりから学んだ、長く続く価値
わたしが作るウェブサイトは、単なる広告ツールではありません。会社や、そこで働く人たちの「歴史」を映し出す記録媒体です。人が年を重ねて成長するように、サイトも同じです。働く人の知恵をしっかりと蓄積し、お客様と対話を続ける。止まったら終わりです。
その変化(成長)を現実のものとし、あなたの会社にとって尊い「歴史をつなぐ」ことで貢献できればと思います。
※サステナビリティは、会社や事業が持続的に発展していくための考え方です。私たちは、その中で「人と社会」との関わりを重視しています。